鉄道の仕事に従事していると、周囲からは「いつも冷静で、丁寧な対応をしていてすごいですね」と言われることがよくあります。規律正しく、何が起きても動じない。そんな「完璧な駅員像」を求められるのがこの仕事の宿命かもしれません。
しかし、声を大にして言いたいことがあります。 「駅員だって、一人の人間です」
疲れる日もあれば、心が折れそうになる瞬間もあります。そして、時には感情が波立ってしまうことだってあります。
今回は、私が駅員、車掌、運転士という現場を一通り経験してきた中で辿り着いた、駅員の仕事における「きつさ」の正体と、その過酷な現場で自分を守りながらプロとして立ち続けるための「心の整え方」について、本音で語ってみたいと思います。
1. 「100回目の質問」に、1回目の笑顔で答える過酷さ
駅の改札窓口に立っていると、一日中途切れることなく質問が寄せられます。 「トイレはどこですか?」 「新宿駅にはどう行けばいいですか?」 「この切符で乗り越せますか?」
どれも駅員にとっては、一日に何十回、何百回と繰り返される「いつもの質問」です。しかし、目の前のお客様にとっては、それが「今日初めての、切実な質問」なのです。
頭では分かっています。「自分にとっては100回目でも、相手にとっては1回目だ」と。プロとして、常に新鮮な気持ちで、親切に対応すべきだということは、新入社員研修で嫌というほど教わりました。
それでも、忙しいラッシュ時や、トラブルが重なっている時間帯に「トイレどこ?」と同じことを何度も聞かれると、正直に言って「心がざわつく」瞬間があるのです。
これは、駅員なら誰もが経験する「感情労働」の難しさです。自分の本当の感情を押し殺し、組織が求める「適切な表情や態度」を演じ続けること。これが積み重なると、心は少しずつ摩耗していきます。イライラしてしまう自分を「プロ失格だ」と責めてしまう。その自己嫌悪こそが、実は一番の「きつさ」なのかもしれません。
2. きつさの正体は「質問」ではなく「余裕の消失」
ここで、少し深掘りして考えてみましょう。なぜ、私たちは「質問」に対してイライラしてしまうのでしょうか。
実は、質問そのものが悪いわけではありません。 本当の敵は、自分の中から「余裕(マージン)」が消えていくことです。
駅員の現場は、常に「余裕」を削り取る要素に満ちています。
- 物理的な忙しさ: 目の前に列ができ、背後では電話が鳴り、無線からは異常事態の連絡が入る。
- 不規則な生活: 24時間勤務や泊まり勤務による睡眠不足で、脳が慢性的に疲労している。
- 環境ストレス: 絶え間ない騒音、人混みの熱気、そしてピリピリとした「急いでいる人々」の殺気。
このような状況下では、どんなに性格が穏やかな人でも、心のダムが決壊しそうになります。いつもなら「丁寧にご案内しよう」と思えるはずの些細な質問が、ダムから溢れ出す最後の一滴になってしまうのです。
つまり、駅員の仕事が「きつい」と感じる本当の正体は、仕事内容そのものではなく、「自分の心の安全余力を、周囲の環境によって限界まで削り取られてしまうこと」にあるのです。
3. 「イライラしない」は無理。だから「余裕をゼロにしない」
プロの駅員として長く生き残るために必要なのは、仏のような聖人君子になることではありません。「自分は今、余裕がなくなっている」と客観的に気づき、致命的な爆発を起こさないための「小さな工夫」を積み重ねることです。
私が現場で実践している、心を削られないための4つの技術をご紹介します。
① 「定型文」という名の防護服をまとう
毎回、相手に合わせてゼロから言葉を紡ごうとすると、脳のリソースを激しく消費します。道案内やルール説明は、自分の中で「最高に効率的で丁寧な定型文」をいくつか作っておきます。 「自動操縦」で対応できる部分を増やすことで、脳の疲れを最小限に抑え、本当に心を使うべき「困っているお客様」のためにエネルギーを温存するのです。
② 「3秒の呼吸」でトーンをリセットする
イラッとした瞬間、そのまま言葉を発すると、声のトーンにトゲが混じります。お客様はそのトゲに敏感に反応し、さらなるトラブルを招くという悪循環に陥ります。 質問を受けた直後、あえて「一呼吸」置いてから口を開く。これだけで、声のトーンは驚くほど整います。
③ 「課題の分離」で自分を切り離す
怒鳴っているお客様や、理不尽な要求をする人がいたとき、「この人は、今の状況に対して怒っているだけであって、私個人を攻撃しているわけではない」と言葉にして自分に言い聞かせます。 心理学で言う「課題の分離」です。相手の機嫌は相手の課題であり、私の心まで土足で踏み込ませる必要はない。そう思うだけで、心のダメージは劇的に減ります。
④ 「チームで分散する」勇気を持つ
「自分が今、窓口を離れたら回らなくなる」という責任感は素晴らしいですが、一人で抱え込みすぎると必ず限界が来ます。 本当にきついときは、早めに「今、窓口が立て込んでいて少し余裕がないです」と周りに共有する。助け合うことは「甘え」ではなく、大きなミスを防ぐための「リスク管理」なのです。
4. 駅員も人間。だからこそ「当たり前」の価値がある
鉄道の仕事に向いているのは、「感情が全く動かないロボットのような人」ではありません。 むしろ、人として普通に疲れ、イライラし、時に悩みながらも、**「それでも、お客様を安全に目的地へ送り届けるために踏みとどまる人」**こそが、真のプロフェッショナルなのだと私は思います。
「いつも完璧に優しく」いられなくてもいい。 「今日はお客様に少し冷たい態度をとってしまったかも」と反省できるあなたは、それだけで十分に誠実な鉄道員です。
大事なのは、崩れそうになったときに、自分を責めるのではなく「あ、今自分は余裕がなくなっているんだな。休憩時間に甘いものでも食べてリセットしよう」と、自分を立て直す方法を知っておくことです。
同じ質問を何度も受け、心が削れる日もあります。 それでも、何事もなく一日が終わり、最後にシャッターを下ろすとき。 「今日も、何万人もの『当たり前の日常』を、自分の手で守り抜いた」 その静かな達成感を感じられるとき、この仕事の「きつさ」は「誇り」へと変わります。
駅員も、人間です。 不器用でもいい、完璧じゃなくていい。 その「人間らしさ」を大切にしながら、今日もまた、改札の案内板の下で皆さまをお迎えしましょう。

